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新聞奨学生だった有名人

学生の頃に「新聞奨学生」をしていた有名人はたくさんいます。
新聞奨学生は、勉学に励みながら、お仕事も責任をもって勤める必要があり、心身共にハードできつい制度ですが、それを乗り切られた方なので、職業も一般的に大変で苦労が多いと言われるような「政治家」「実業家」「漫画家」などを生業にしている有名人が多いようです。
「声優」の有名人も多く見受けられますが、これは声優の学校と新聞奨学会が提携していて、新聞奨学生をやりながら、声優を目指す仕組みが確立しているためだと思われます。
このページでは、新聞奨学生だった有名人の氏名、職業、略歴・コメントなどを紹介しており、ページの後半では新聞奨学生ではありませんが、新聞配達をしていた有名人も合わせて紹介しています。
(氏名クリックで出典元サイトが開きます)

新聞奨学生だった有名人

柳家三之助

落語家
一貫して帰宅部・文化部畑を歩む。小学校では器楽部、中学校では吹奏楽部、高校時代には吹奏楽部を掛け持ちしがら演劇部に所属し、長く休眠状態だった同部を二年連続県大会出場へと導いたが、県大会にてそのレベルの違いに愕然とする。小学生時代に水泳部と駅伝部に所属したことがあるが、公式の記録からは抹消されているようである。
大学入学と同時に新聞奨学生として二年間の経験を積むが、通常の学生のようなサークル活動が不可能であったために、主に飲酒と観劇、寄席見物などの活動に力を入れる。 大学生活の後半二年は、DTPオペレータとして出力センターでアルバイトをしながら生計を立てる。この頃覚えたデザインや印刷・製版の知識を生かし、現在自身のものだけでなく、多数の落語会のチラシその他の広告製作を手がけている。

安田朗

漫画家、ゲームクリエイター、イラストレーター、キャラクターデザイナー、元アニメーター
幼少時にはダリやドガなどの美術に影響を受ける。小学生のときに先生に褒められたことがきっかけで本格的に美術に目覚める。しかし、中学時代に安彦良和の戦場の絵を見て絵の方向性が変わったという。地元には就職先が無かったため、新聞奨学生として東京デザイナー学院(現東京ネットウエイブ)に入学。眠るのが好きなので、授業中に寝てたり、課題を出さないことがよくあったという。 その後、親に黙って東京デザイナー学院中退後、趣味でパソコンを使ってアニメのイラストなどを描いていたが、新聞屋を辞めて、アニメーターになる。アニメスタジオでは『コンポラキッド』や『北斗の拳』の原画を描いていたが、賃金の低さから電車賃さえなくなり、数ヶ月で辞める。この時、漫画家やイラストレーターなども考えたが諦めて、体力を使わないように毎日天井を見つめていたという。それを見た彼女に仕事を探せといわれたので、求人誌で広告の仕事を見つける。しかし、実際に行ってみると広告屋ではなくゲーム会社であり、1985年に株式会社カプコンに入社。この頃のペンネームはAKIMAN(これは「アキラマン」を省略した、『ドラゴンクエスト』のプレイネームである)。
カプコン時代はアートディレクターとして数々のタイトルに携わり、『ファイナルファイト』『ストリートファイターII』などでプランナーとしても才能を発揮。同ゲームは世界的なヒットとなった。 現在はフリーランスとなり、愛称であるあきまんを主に著作者名として使用している。絵を描くにあたり影響を受けたのは安彦良和、フランク・フラゼッタ、N・C・ワイエス(en)。本人いわく「安彦さんが好きで、アニメーターになろうとして失敗してゲーム業界に入ったようなもの」(『∀ガンダム全記録集2』より)。

井浦秀夫

漫画家
予備校、大学時代を通して朝日新聞社の新聞奨学生であった。大学在学中は早稲田大学漫画研究会に所属。
早大漫研OBである東海林さだおのアシスタントを経て1979年に『私は人を殺した』(ホラーサスペンス)で双葉社の漫画アクション新人賞を受賞、プロデビュー。
読み切りで小気味の良いコメディーを執筆していたが、新人中学教師雨宮公平の奮戦期を描いた『雨森公平 先生です!』、高校生カップルの何気ないながら思春期に成長していく様子をみずみずしく描いた『やる気のまんま』(Weekry漫画アクション)をゲスト連載し、これらの作品は単行本も発売された。
1991年から約半年にわたって連載された『少年の国』は、ひとりの超能力を持つ少女の周りに作為的に生まれた新興宗教団体が舞台となり、発表後に起こった「オウム事件」を予見したと高い評価を得た。
1998年の『職業・AV監督』(原作:カンパニー松尾)、『由美香』(原作:平野勝之)をきっかけに、アダルトビデオに携わる人々を編集者と共に綿密な取材を重ねて描いたノンフィクション作品を手がけた。 また2003年にビッグコミックオリジナルに連載が始まった、型破りな弁護士を主人公とする『弁護士のくず』は前作である『強欲弁護士銭高守』の主人公の設定とキャラクターを置き換え、2006年にTBSでテレビドラマ(豊川悦司・伊藤英明W主演)になったほか、平成18年度(第52回)小学館漫画賞一般向け部門を受賞した。
2016年からは、ビッグコミックオリジナルにて、型破りの刑事を主人公とする『刑事ゆがみ』の連載を開始。同作は2017年にフジテレビで浅野忠信主演によりテレビドラマ化される。

石見翔子

漫画家
福井県出身。 様々なゲームのアンソロジーコミックを執筆の後、2004年に『まんがタイムきららMAX』(芳文社)へ誘われ、初のオリジナル作となる『スズナリ!』を連載。

渡辺みちお

漫画家
小学3年生の頃に絵画コンクールで賞を貰った事をきっかけに絵を描く事に興味を抱くようになる。離島在住のため近くに本屋がなく、通信販売で当時刊行されていた漫画雑誌の『冒険王』や『少年』などを取り寄せて読んでいた。小学校の高学年の頃から友人と共に漫画を描くようになり、中学生の頃に石ノ森章太郎の『マンガ家入門』が発売されると、渡辺はそれを教科書にして本格的な漫画の描き方を覚えるようになる。高校時代に作品を2本ほど投稿するも落選、実力不足と判断して高校を卒業した時点で漫画家の道は諦めていた。
その後は父が建築関係の仕事をしていたため、上京して建築関係の専門学校に入学し新聞奨学生を始める。しかし建築を志望していたわけではなかったために、学業にあまり興味が持てずに挫折。 当時の恩師といえる新聞販売店の所長に「本当は漫画家になりたい」と告げると、彼の知人であったかざま鋭二を紹介される。これをきっかけに専門学校を3ヶ月で中退し、アシスタントになる。しかし奨学生という立場から、1年間は新聞配達の仕事を続けながらかざまのアトリエに通っていた。
その後、かざまに「来年から毎日来い」と言われ、かざまプロに4年間通い始める。この時期に知り合いになった編集者との縁で、24歳の時に芳文社の漫画雑誌『コミックマガジン』にて原作付き作品を隔週連載しデビューを果たす。その後は主に原作付きの漫画作品を描いている。『別冊漫画ゴラク』(日本文芸社)にて『大和の獅子』を連載中だったが、全3巻で完結した。
現在、『週刊漫画ゴラク』(日本文芸社)にて『白竜』の続編に当たる『白竜HADOU』を連載中であり、同誌の看板作品となっている。

木城ゆきと

漫画家
1967年、東京都大田区蒲田に木城家の長男として生まれる。両親は当時肉屋を営んでいた。約1年後、千葉県柏市逆井に引っ越し、父親はタイル職人に転職する。木城は幼い頃から絵を描くことが好きで、小学生の頃には大学ノート15冊に自作の漫画を描いている。1982年、茨城県へ引越し、筑波高校へ入学、美術部に在籍した。この頃から、漫画家になることを目指し始め、高校在学中に1000頁の原稿を描き上げることと、新人賞に入賞することを目標に漫画を描き始める。高校3年生在学時の1984年、SF漫画『気怪』を第15回小学館新人コミック大賞に投稿し、入選する。同作品は漫画雑誌『週刊少年サンデー』(小学館)に掲載され(YUKITO名義)、デビュー作となる。高校卒業後の1985年、新聞奨学生として東京デザイナー学院の商業デザイン科に入学するも、学校へはあまり行かなくなる。その後、同人誌活動を一時期行っている。
1988年からは商業誌に活動の場を移し、読み切り作品を数本描いている。 この活動を通じて、後に集英社で木城の担当編集になる人物と出会い、この担当とのやり取りで、1990年の前半には『銃夢』の原型となる作品のネームが出来ている。その後『銃夢』の連載が決定し、1990年12月発売の隔週漫画雑誌『ビジネスジャンプ』(集英社)にて初の連載を開始した。しかし1994年、作者曰く「ある事件」がきっかけで原稿恐怖症、対人恐怖症のノイローゼ状態となり、『銃夢』は当初考えていなかった結末に差し替え、連載を終了した。
その後は『ウルトラジャンプ』(集英社)にて『灰者』『水中騎士』を連載、その後2000年より同誌にて『銃夢』の続編となる『銃夢 LastOrder』を連載した。しかし、『銃夢』新装版における表現問題を巡って集英社と木城との間でトラブルが生じ、連載は中断し、『銃夢 LastOrder』は2011年に『イブニング』(講談社)で移籍連載することとなった。『銃夢 LastOrder』の連載は2014年に終了し、同年より「銃夢シリーズ最終章」を銘打った『銃夢火星戦記』を『イブニング』にて連載している。
漫画以外では、広井王子のファンタジー小説『蜃気楼帝国』の挿絵を担当している。

岸本貴博

報道記者、元キャスター
愛知県豊田市出身。豊田市立平和小学校、豊田市立豊南中学校、愛知県立豊田南高等学校卒業後上京。 東京都国立市で新聞奨学生として浪人生活を過ごした後明治大学に進学。 大学卒業と同時に父親の故郷である沖縄県に渡り、琉球放送に入社。琉球放送と深いつながりがある琉球朝日放送に出向し、報道記者として主に事件・事故・裁判を担当。
2003年沖縄県の県費奨学生に選ばれてアメリカ・カリフォルニア大学バークレー校に留学し、 “International Diploma Program”のProject Management コースを修了。2004年帰国後は担当が県政関係に変わり、米軍普天間基地移設問題、選挙、県議会などの取材にあたった。 2009年、当時琉球放送でアナウンサーとして勤務していた新潟県出身の増田さと子と結婚。翌年12月に第一子となる息子が誕生。 ほぼ同時期にテレビ西日本の経験者対象キャリア採用試験を受け合格。2011年1月末に琉球放送を退職してテレビ西日本に移籍。
その年の3月28日から2013年3月29日までの2年間『スーパーニュース』のキャスターを務めた。 現在も報道部記者として活動中。 講道館柔道2段の一方、大学時代にアジアを中心に海外を30ヶ国以上放浪していたということで、タイ古式マッサージの免許を所持しているという意外な側面もある。

おおしたこうた

声優
養成所に入った頃は、苦学生であったらしく新聞奨学生などをやっていた。人造昆虫カブトボーグV×Vで在学中に声優デビュー。2007年3月の番組延長に伴う声優オーディションに合格した。第30話から毎週レギュラー出演している。

河本啓佑

声優
高校に入ってすぐの頃は弁護士志望で、大学の法学部に進むため勉強し、裁判の傍聴に通う。しかし、友人の勧めで『機動戦士ガンダムSEED』を観たことがきっかけで、高校2年の夏休み明け頃に本格的に声優になろうと思い立つ。その頃『純子と涼のアシタヘストライク!』(文化放送)を聴いていたことから、養成所はアミューズメントメディア総合学院(大阪校・声優タレント学科)に決めて入学する。養成所に入った頃は、新聞奨学生などをやっていた。ゲストで登場した『工口×工口』内では「フレッシュ」というあだ名を付けられ、それ以降も同番組の公開録音でもアシスタントとして会場を走り回るなど、度々番組に参加している。
2007年7月にBoy's Beatのメンバーとなる(他のメンバーに岡本寛志、三宅淳一、根本幸多、鈴木賢)。2010年12月まで青二プロダクション(ジュニア)に所属していた。2010年12月27日からフリーになった事を発表し、その後プロダクション・エースに所属。

江口拓也

声優
中学時代はバスケットボール部に所属し、3年にはキャプテンを務めた。高校2年の時に生徒会長を務めた。高校時代はコンビニでアルバイトをしていた。高校2年の時、深夜テスト勉強中になんとなくつけた小野坂昌也のラジオ番組が面白くて、声優に興味を持ち、アニメ・漫画・ゲームが好きだったこともあり、声優を目指そうと思う。高校卒業後、新聞奨学生として日本工学院専門学校に通う。 2007年、第1回81オーディション合格。日本工学院専門学校に通いながら、81プロデュースの養成所に通う。 2008年、『真救世主伝説 北斗の拳 トキ伝』で声優デビュー。

松岡禎丞

声優
15歳の頃、友人の勧めで観たアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の渚カヲルと『テイルズ オブ エターニア』のリッド・ハーシェルの石田彰の演じ分けに驚き、声優という職業を知る。高校3年の秋まで自動車整備士を志していた。 その後、自動車整備士を目指しつつ、道内の声優学校を捜すも「東京に出ないと厳しい」との助言を受け上京。代々木アニメーション学院へ新聞奨学生をしながら通い卒業、それと同時に日本ナレーション演技研究所に入所。2009年のオーディションによりアイムエンタープライズ所属となった。同年、『東のエデン』のAKX20000役でデビュー。
初めてオーディションで受かった役は、『THE IDOLM@STER 2』に登場する男性アイドルユニットJupiterの御手洗翔太である。 2011年:『神様のメモ帳』の藤島鳴海役で初主演を果たし、同年度第6回声優アワード新人男優賞受賞。 2012年:『ソードアート・オンライン』のキリト役で知名度を上げる。

大内ふみや

声優
茨城県出身。2月27日生まれ。新聞奨学生として専門学校に通い、本年度事務所所属になったばかりの苦労人・新人声優です。コンプレックスだった声を武器に変え、声優業界に挑戦。

檜山修之

声優
広島の日赤病院で出生。 声優になった理由は「食べていくため」。高校生の頃「自分の好きなことで飯が食えたらいいな」と思っていた。第1希望は歴史の研究家だったが、大学の史学科のレベルの高さに断念。第2希望である声の仕事を選んだ当時、放送部にいたためこういう仕事をして生活が出来たら幸せと思い、養成所に入ることを決意。 高校を卒業して声優になるために上京したが、親に学費を出してもらえずオンボロアパートに住み込み新聞奨学生をしながら東京アナウンス学院、日本ナレーション演技研究所といった声優の専門学校に通う。
舞台経験は少ないが、「芸を磨く上で機会あれば今後も出演していきたい」とのこと。

下村博文

政治家、文部科学大臣
群馬県高崎市(旧:倉渕村)出身。文部科学大臣(第18代・第19代)、内閣官房副長官、文部科学大臣政務官、法務大臣政務官などを歴任。 自由民主党では幹事長代行(第4代)、総裁特別補佐、副幹事長、国会対策副委員長、広報局次長、新聞局次長、東京都連会長、国会では、衆議院法務委員長、議院運営委員会理事などを歴任。あしなが育英会の副会長を務めた。

赤野秀二

政治家、府中市議会議員
1960年大分県生まれ。工学院大学卒業。1983年からシステムエンジニアとして会社勤務。2007年4月府中市市議会議員に当選。現在3期目。建設環境委員、党市議団長を務める。趣味:電気機器・機械の修理、演劇鑑賞。住吉町在住。

坂口光治

政治家、元東京都西東京市長(2期)、元東京都議会議員(5期)
長野県上田市出身。誕生地は小県郡泉田村。(泉田村小泉地区は後に川西村となり、その後上田市に編入)。農家の六人兄弟の末っ子、五男として稼業の米作り、酪農、養蚕等を手伝い18歳まで上田市で育つ。長野県上田千曲高等学校電気科卒業。高校時代は陸上部に所属。卒業後、布団袋一つを持ち進学の為、東京へ上京。
東京都武蔵野市の新聞専売所に勤め、午前3時半起きの新聞奨学生をしながら電子学園日本電子専門学校電子工学部を卒業(優秀表彰)。 卒業後は母校の助手を2年務め、同校の情報学部教員となり、コンピューターのプログラミング、システムデザイン及び経営事務管理論等を教える。傍ら慶應義塾大学経済学部に入学し、1980年に卒業する。教員時代に教職員組合を結成し、初代委員長になり労働条件の改善に取り組んだ事などが政治家を志すきっかけの1つになる。

伊藤ゆうた

政治家
1985年宮城県仙台市生まれ。仙台市立大和小学校、蒲町中学校、宮城県立貞山高等学校、國學院大学文学部文学科卒。東北大学公共政策大学院在籍。大学時代は新聞奨学生やアルバイトの掛け持ちし勤労学生として学ぶ。マネジメント会社でのサラリーマン経験、地方議員の経験(神奈川県座間市)を経て、故郷仙台で働くことを決意。2015年8月仙台市議会議員選挙(青葉区)にて初当選。所属委員会/都市整備建設委員会(2015年9月〜)総務財政委員会(2016年9月〜)・防災・減災推進調査特別委員会。一児の父として子育て奮闘中。防災士、子育て支援カウンセラー資格も持つ。無所属で市政改革へ再起動。

秋山もえ

政治家
日本共産党 上尾市議3期 埼玉県議1期目 千葉県木更津市生まれのO型 辰年 水瓶座 Ally 身長170㎝ 新聞奨学生をしつつ大東文化大学国際関係学部卒業(ウルドゥー語) 家族は夫&こども3人 手話が好き 趣味はカフェめぐり。

小川勝也

政治家
北海道上川郡和寒町西町出身。実家は小さな鉄工所で、「鍛冶屋のかっちゃん」と親しまれた。和寒町立和寒小学校、和寒町立和寒中学校、北海道旭川北高等学校を経て、日本大学法学部卒業。日大法学部在学中は新聞奨学生だった。
大学卒業後、鳩山邦夫衆議院議員の秘書を経て、1995年に新進党公認で第17回参議院議員通常選挙に北海道選挙区から出馬し初当選。1996年12月新進党を離党し旧民主党に入党。2001年の第19回参議院議員通常選挙には民主党公認で出馬し再選。2007年7月の第21回参議院議員通常選挙では得票数トップで3選。 2009年9月鳩山由紀夫内閣で内閣総理大臣補佐官(農山漁村地域活性化担当)に任命。2010年5月の鳩山内閣総辞職まで務める。2011年1月菅第2次改造内閣では防衛副大臣に任命。同年9月野田内閣発足に伴い防衛副大臣を退任し、参議院農林水産委員長に就任。2013年7月の第23回参議院議員通常選挙では得票数2位で4選。

上原カイザ(上原快佐)

政治家
専門学校時代(2年)、浪人時代(1年)、大学時代(4年)の合計7年間、新聞奨学生として新聞配達で学費・生活費を全額自己負担。高校卒業後はとにかく家を出たくて大阪のダイハツで車の組み立ての仕事に従事。その後沖縄に戻り2年間アルバイト生活。兄が米軍関係車輌に後ろから追突され何の補償もなかったことをきっかけに、沖縄のことを勉強しはじめました。地元の問題と向き合いはじめたのはこの事件がきっかけでした。その後、一念発起し、21歳で新聞奨学生をしながら横浜の大原簿記専門学校に。苦労して日商簿記2級を取得。

坂本尚志

獣医師
秋田県十文字町(現横手市)の畜産農家に生まれた。牛の往診に来る獣医師の仕事ぶりに憧れ、動物の世話をしながら「牧場で働きたい」と願うように。神奈川県の私大の獣医学部への進学がかなったが、思わぬ事故に見舞われたのは入学式の4日前だった。新聞奨学生となり、早朝、バイクで配達していた際、居眠り運転の車に衝突された。病院で意識が戻ったのは1カ月後。右足をみると膝から下がなくなっていた。破傷風に感染しないよう、両親の同意を経て手術で切断されたと知った。

和田創

実業家、和田創研代表、シニア起業家
数字立て直し(伸長)一筋の経営コンサルタント。教育と指導の年間実績は約百回。対象は社長から役員、管理者、社員まで、テーマは経営から管理、採用、事業、商品、企画まで広範。著書や教材は多数。2017年、66歳以降はAIやロボット関連の起業に挑むとともに、おもに内需・地場企業から先端分野・成長分野の事業・商品開発を請け負う。クライアントとともに77歳までに百社の設立を目指す。

中川晃男

実業家、有限会社ビデオエイジ代表
1962年京都嵐山に生まれ桂川の産湯につかる。高校生の時、伝説のTV番組 “ PIP ” に影響されE.ギターを始めロックミュージシャンを夢見た。東京代々木の音響専門学校に 新聞奨学生をしながら通いバンド活動を開始。卒業後、 アルバイト先のビデオ制作会社で初めてビデオカメラに触れる。
ビデオ撮影の楽しさにハマり、これを天職と感じてしまいロックミュージシャンの夢はあきらめた… 1988年4月 有限会社ビデオエイジ設立。都内ホテルにて結婚式ビデオ撮影を始めとして活動。まもなく放送用ビデオカメラを導入してテレビ番組・企業VPなどの撮影クルーやマルチカメラによる映像制作へと活動を広げた。また、お客様の「生の声」を聴きたくなり、街のビデオ屋さんとしての使命を感じながら今日に至る。

中村信二

実業家、日本学術講師会株式会社ガクジュツ代表取締役社長
1963年(昭和38年)6月11日、福岡県出身。学校教師の父と公務員の母を持つ。福岡県立筑紫高等学校卒業後、西南学院大学経済学部卒業。 九州大学以外の受験は絶対に許さないと云う父親に土下座して受験を許してもらう。自分の小遣いで受験をし、合格したものの父親から勘当され、学費・生活費共に自分で工面する。学生時代、久々に実家に酒を手みやげに行くも、父親に玄関で追い返され酒瓶を割って帰ったという。今は親子の関係は修復されているとの事[1]。
大学生時代は新聞奨学生を行うも条件が違いすぎ、1年でやめる。バーテンで学費を稼ぐも店が潰れてしまう。 塾を開く事を思いつくも生徒が来ずに断念。 家庭教師を派遣する会社を訪れ、紹介された中学生生徒があまりにも勉強ができず、アルファベットも読めない始末。親身にその生徒の指導を続け、その後、指導が評判となり、次々に家庭教師依頼が来る様になる。大学4年の時、家庭教師が仕事に出来ない物かと考え、1986年、家庭教師派遣の会社を設立。
指導している勉強のできない子供達の為に作った問題集高校入試「虎の巻」が爆発的ヒットとなる。現在(2014年)17都府県にて販売。新聞社や放送局が取り扱い店となり、インターネットでも販売。 また、今の教育はお金がかかりすぎている。母子家庭など貧しい家庭の子供は勉強したくてもできない。そういう子供達のために無料の学習塾を開きたい・・・と云う20数年の夢を2013年11月『学術の森』で叶える。
1990年の雲仙普賢岳の噴火の際にはボランティアで家庭教師160名余を自腹で連れて行き、噴火で学校も教材も家もなくした子供達へ勉強を教えるが、地元の一部心ない人から「売名行為」などと言われたり選挙に利用される。
阪神淡路大震災もボランティアに行こうと試むが、雲仙普賢岳の苦い経験を思い出し、踏み切れなかった。東日本大震災では教育ボランティアで文房具350キロを支援。

奥田和宏

実業家、光ホーム社長
高校卒業後、関西から上京し一年間新聞奨学生として働きながら予備校に通った。大学進学後、在学中に事業を起こした。不動産管理事業、ウィークリーマンション事業、婦人服販売など幅広く経営、年商10億をあげている。

大友玲菜

実業家、株式会社ねごと代表取締役社長
出身は岩手の盛岡市。高校の時には放送委員会に。ドキュメンタリーを制作して、全国1位の賞をもらったことも。メディア関係の仕事に興味を持ち、大学は早稲田に入って「表象メディア論」を学ぶことに。就職活動も同時進行でやっていく中で、WILLFU卒業生対象の就活サポート(WILLFU CAREER)も利用していて、その中で「子会社の社長として自由に事業を立ち上げる」というポジションを募集している企業に出会いました。それまでの起業実績を評価いただいて選考を通過し、現在は大学に在学しながら社長として事業を立ち上げています。

成 暻哲

実業家、株式会社ダニエル企画 Daniel Co.,Ltd社長
私は1998年4月に来日し、日本語学校卒業後、朝日新聞奨学生として新聞配達のアルバイトをしながら東京農業大学を卒業しました。
アルバイトをしながら勉強するのはとても大変でしたが、学校の勉強だけでは学ぶことができないたくさんの社会勉強ができ、大学を卒業する時は自分の身の周りも見られるようになるまで成長することができました。

吉川沙耶香

実業家、ランジェリーメーカー「choke choke」社長
3歳からピアノを習う。音大に入るが高校三年の時、役者になろうと方向転換。演劇コースのある専門学校入ることにしたが学費が年間160万もかかので新聞奨学生になる。21歳でランジェリーメーカー「choke choke」を設立。

長谷川寿弥

実業家、カイテキ産業株式会社社長
大学時代は、新聞社の奨学金制度を利用していました。おかげで営業のやり方や仕事に対する根性を身につけることができましたね。証券会社に入社して1年目に支店の売上げトップとなり、社長賞も何度も頂いたのも、製薬会社のMRや、体育会系の不動産会社などへ転職し、成果を上げられたのも、新聞奨学生時代の経験があったからこそだと思います。

中谷公巳

実業家、アクシスインターナショナル代表取締役社長
2人兄弟の弟として石川県小松市に生まれる。地元の公立中学校から小松高等学校に進学。卒業後は一時、社会人の道を歩むも、大学への進学を機に東京へ上京。在学中は読売新聞の新聞奨学生として新聞配達をしながら、ベンチャー企業の立ち上げや環境ボランティア団体の立ち上げとその代表を経験する。1998年に立教大学文学部を卒業。卒業後はソフトバンク・グループを経て、MCIワールドコム(現ベライゾン・ビジネス)、アクセンチュアに勤務、ITプロジェクトマネジメントを専門に、システム開発やITデューディリジェンスの業務にマネージャーとして従事。2007年よりITビジネスコンサルティング会社アクシスインターナショナルの前身であるアイアクシスに活動の中心を置く。
現在アクシスインターナショナル株式会社代表取締役社長。米国プロジェクトマネジメント協会会員、プロジェクトマネジメント学会員。

家入一真

実業家、paperboy&co.社長
連続起業家(シリアル・アントレプレナー)、実業家、投資家。 GMOペパボ創業者で、代表取締役社長を歴任した。 福岡県立玄界高等学校を高校1年時にいじめを原因に中退し3年間ひきこもりとなり、大学入学資格検定に合格し地元の美術大学にも合格するものの通わなかった。芸大美大受験の予備校である美術研究所画塾卒業。

木村勤

鹿島記念病院院長
母は看護師。医療の世界をなんとなく身近に感じる。医師になりたいと最初に思ったのは、小学校の高学年の時にアルベルト・シュヴァイツァーの伝記を読んだとき。
高校生になっても想いは変わらず、医大を受験。しかし結果は不合格。翌年、自宅で浪人をして勉強。ところが、受験しようとした大学の受験教科が突然変わってしまい、受験することができなかったのです。親の援助は受けずにやろうと思い、東京に出る。新聞奨学生として、朝の3時から新聞販売員の仕事を始眼鏡る。

鳥光宏

作家、エッセイスト、セミナー講師、駿台予備学校古文科講師
1959年、東京都墨田区に生まれる。幼い頃に両親が相次いで入院するなどし、電気・ガス・水道も止められた極貧生活の中、祖母に育てられ、4人の弟と妹の面倒をみながら学校へ通う。都立高校卒業後は、裕福でなかった家庭の事情により大手書店で働くも、現状に満足できず「このままだと人生ないな」との強い危機感を感じるようになる。そうして何かを変えなければならないと強く思っていた社会人3年目に新聞奨学生制度を知り、知り合いの新聞販売店に勤めることになる。
1年間勤務の傍ら受験勉強に励み、琉球大学医学部保健学科(旧保健学部)に合格。しかし入学金と半期の授業料を収め、渡航費を支払うと貯金はほとんど底を尽きかける。親からの仕送りもなく途方に暮れていた矢先、友人から奨学金制度の存在を教わり、奨学金の給付を申請。成績優秀だった鳥光は結果的に6年間授業料免除で同学部を卒業する。その後、教育現場に足を踏み入れるべく法政大学文学部に進学。国語科教員免許を取得し3年間高等学校で古文を教え、その傍ら友人の勧めで受験した駿台予備学校古文科講師の採用試験に合格。以来、駿台予備学校古文科講師として同校に出講し、20万人を超える受講生を指導してきた。

横山真

作家
福岡大学人文学部教育・臨床心理学科2017年卒。元新聞奨学生。小学校教員。「日本比較経営学会 第42回全国大会『若者の貧困と大学進学問題〜新聞奨学生を題材に』」 。単著『新聞奨学生 奪われる学生生活』(大月書店 2018) 共著『日常の中の「フツー」を問いなおす:現代社会の差別・抑圧』(法律文化社 2018)

杉山大二郎

作家
3歳のときに両親が離婚し、私は母子家庭で育ちました。生活はきびしく、小学5年生から新聞配達のアルバイトをしていた。高校時代から小説を書きためていて、作家になろうと早稲田の文学部を目指すのですが合格できませんでした。そこで、最初の1年間は日経新聞の奨学生として荒川区尾久の専売所に住み込み、予備校に通いながら、朝夕刊の配達と集金の仕事をしていました。ところが、次第に勉強よりアルバイトの比重が高くなってきて、こんな生活をしていてはいけない、きちんと就職しようと考えるようになったのです。
それなら就職に直結するスキルを身につけたほうがいいだろうと、働きながら2年間、英会話の専門学校に通い、1989年にリコージャパンの前身の1社である東京リコーに入社しました。

伊藤真

元スポーツ選手、元プロ野球選手(投手)、東京ヤクルトスワローズの打撃投手
秀明八千代高校ではエースとして県大会でベスト16に入る。進学した八千代国際大学(現・秀明大学)は創立直後で野球部がなかったため、草野球チームに入る一方で自ら野球部を創設した。3年春から千葉大学リーグ3部に参加し、4年秋は7勝1敗で3部優勝に貢献。なお大学時代は朝日新聞の新聞奨学生で、千葉市の海浜ニュータウンで配達をしていた。
左腕の軟投派で、1991年のドラフト会議で広島東洋カープに6位指名され入団。「千葉の奪三振王」のふれこみがあった。1995年までカープ、1996年は千葉ロッテマリーンズに移籍し、1A・バイセイリア・オークスに野球留学した。1997年はヤクルトスワローズに在籍し、引退。スワローズで打撃投手を務める。 二軍では活躍し防御率ベストテンに入り、Jオールスターに選ばれたこともあった。

山本一徳

元スポーツ選手、プロ野球選手
高校2年と3年の初夏、OBのつてで早大野球部が教えに来た。地元の国立大、地元に就職。入試の後、トボトボと向かった地下鉄の早稲田駅前で、予備校のビラを手にする。「仕事しながら勉強できるのか、と」。新聞奨学生のチラシも入っていた。新聞販売所に住み込み、午前2時に起きる生活が始まった。東京の区画された住宅街に戸惑った。予備校に通いながら雨の日も雪の日も、340軒に配り続けた。そして、早大に受かった。神宮で投げ、2006年のドラフト5巡目でプロ入りを果たした。

諏訪原健

元SEALDsメンバー
私は、新聞配達と学業を両立した。そして二つの専門学校に行った。それで、奨学金の借金もなし、卒業時には10万ほどのボーナスと配達で貯めたお金10万ほど手元に残った。

安徳烈・平可夫(アンドレイ・ピンコフ)

軍事評論家
新聞奨学生として青山学院大学に通い、ソ連政治を学び、アジア周辺の政治にも詳しく、日本語、中国語、ロシア語、英語はすべて母語のレベルだという。在外華僑ではあるが、常に北京当局の発表に反する情報を流したり、指摘をしたりしている。この為北京当局発行の「国防報」で名指しで批判されるなど、大陸中国で激しく批判されている模様。
ペンネームの「平可夫」は彼の尊敬するゲオルギー・ジューコフ将軍(大陸中国では格奥爾基・朱可夫と表記)をもじったものである。 2015年に発生した香港銅鑼湾書店失踪事件を受けて、自身の安全が懸念されるとして、2016年4月日本に移住することとなった。香港にいても中国共産党に敵とみなされれば、いつ中国当局に拘束されてもおかしくない危険な状況になったとの認識を示し、1月には香港の永住権を返上して日本への移住を決めた。

松本ヒロシ

競馬エイト所属のトラックマン
本名松本浩志。京都府出身。実家は呉服店を経営。現在は千葉県船橋市在住。船橋在住の理由は、中山競馬場に近いことと、美浦トレセンへのアクセスがよいという理由である。
2度の大学受験失敗後の浪人中に新聞奨学生として働きながら受験勉強をする。そのときに酒と競馬を覚えてしまい、「ほとんど勉強はしていなく、ダメもとだった。」が見事合格する。入学後は競馬への情熱を持ち続けながらも、演劇サークルの活動に没頭する。その後、サンケイスポーツ記者である佐藤洋一郎との出会いを契機に競馬エイトへのアルバイトが決まり、そのまま大学を中退する。

木山雄二

看護師
幼い頃、飼料のわらを切る裁断機に右手を巻き込まれて3本の指を失っていた。その記事を見た大阪の大学関係者から連絡があり、大阪の看護学校を紹介された。木山は朝日新聞販売所で、新聞奨学生をしながら学校に通った。現在、熊本県人吉市の愛生会外山病院に看護師として勤めている。

佐藤竹善

歌手、シンガーソングライター、キーボーディスト、音楽プロデューサー
幼少時は演歌一筋だったが、中学1年の時にタンカーの乗組員をしていた親戚の影響でビートルズの赤盤に出会い、それ以降洋楽に傾倒。まもなくベースを購入し、近所の友達とバンドを組み、市内で音楽活動を始める。青森県立青森高等学校進学後、軽音楽部に所属。高校3年の時には保育園からの幼馴染西村智彦らとバンド「リファイナー」で活動。同年、母親からクリスマスプレゼントとして買ってもらったビリー・ジョエルのライブアルバムに刺激を受け、ミュージシャンを志す。1982年、神奈川大学法学部に新聞奨学生として進学と同時に上京。この時、千葉大学への進学を考えていた藤田に「東京に出てプロになろう」と誘い(藤田は明治学院大学法学部に進学)、共に音楽活動を続ける。
1983年西村の(元リファイナー組を含む)音楽仲間らと「514バンド」を結成するが、翌1984年初夏に解散。1984年正月に西村が周囲に何も言わずに帰郷した際には、新川博のローディーを代理で務めた。ピアノやキーボードを始めたのは22歳頃になってからで、シンセサイザーも新調していた。1985年に514バンドを前身として新バンドを結成。翌1986年、「ヤングジャンプ・サウンド・コンテスト '86」に出場する際にバンド名をSing Like Talking(以下本項では「SLT」)とする。同年12月に「TRY AND TRY AGAIN」でグランプリを取り、ファンハウスのプロデューサー(当時)武藤敏史の元で修行[3]したのち、1988年9月30日にシングル「Dancin' With Your Lies」でデビュー。デビューライブではジェフ・ポーカロ(TOTO)(Dr)、ネイザン・イースト(B)と共演。1993年リリースの6thアルバム「ENCOUNTER」、1994年リリースの7thアルバム「togetherness」でオリコンチャート1位を記録している。その間、1990年に小田和正、1991年に山下達郎のツアーサポートでバックコーラスも担当していた。
彼らにトップクラスのボーカル力と言わしめる。

石原詢子

歌手
詩吟家元の家庭に生まれ、4歳から詩吟を習い数々のコンクールで入賞。12歳で師範代となる。高校卒業と同時に上京する。上京後は朝3時半に起床し新聞配達、午前中はうどん屋で働き、午後からは歌や芝居のレッスンを受けつつ、その合間を縫ってコンビニ、居酒屋、レンタルビデオ店のアルバイトという生活を送った。 1988年10月、CBSソニーより「ホレました」でデビュー。

林部智史

歌手
山形県新庄市で生まれ、山形市で育つ。 バスケットボールの強豪校への進学を考え高校受験をするものの失敗し、1浪の末に山形県立山形南高等学校に合格するなど、学生時代から挫折を経験している。バスケットボール部では全国大会に出場し、山形県の国体選手になるなどの結果を残している。 高校卒業後は鶴岡市荘内看護専門学校に入学した。しかし在学中にうつ病を経験し、看護師を目指すのが困難になり、引きこもり生活を経験。看護学校を中退。その後はアルバイトをしながら放浪の旅を続けることになる。
そして北海道の礼文島にあるホテルで働いている時、友人に「その声で歌手を目指さないのはおかしい」と言われたことがきっかけとなり、音楽活動に専念することを決めた。 ESPミュージカルアカデミーに入学し上京。新聞奨学生として懸命に働きながら、ヴォーカルコースを首席で卒業するなど、生活と歌の両立を図る努力を怠らなかった。しかし首席となるも、数あるオーディションに合格できず、卒業後の歌手デビューは叶わないでいた。 一度は歌手になることを諦め、東京ディズニーシーでキャストとして働くが、テレビ番組『THEカラオケ★バトル』から出演のオファーがあり、そこからは仕事もボイストレーナーに就き、今一度歌手を目指し始める。同番組では、なかなか優勝できずにいたが、2015年1月には優勝しないと番組出演を辞退すると決意し、初優勝。その後も優勝を重ね、2015年の年間王者を決める大会で、番組史上初となる予選・決勝連続100点満点を叩き出し完全優勝を決めた。 2016年に歌手デビューを果たし、THEカラオケ★バトルの「2016年 年間王者」にも輝き連覇している。
その後、自身の音楽活動に専念するため、同番組は「殿堂入り」という形で卒業した。

後藤正文

音楽家、作詞家、作曲家、コラムニスト
静岡県島田市出身。静岡県立島田高等学校卒業。1浪後、関東学院大学経済学部卒業。卒業後は、出版社で書籍や絵葉書、カレンダーを書店や文房具店に売り込む営業をしていた。愛称「ゴッチ」。160cm程度の小柄な身長と眼鏡がトレードマークである。

MAGUMI

音楽家、レピッシュのメンバー、ボーカル、トランペット
熊本県出身。本名は「福田耕一」。芸名の由来は、「小2の頃、同じクラスだった女の子に『明日からマグミね』と言われた」 と書籍「バンドライフ」内で本人が語っており、由来については不明。高校卒業後、「とにかく早く親から独立したかった」と、新聞奨学生制度を使って演技系の専門学校に進学した。「合宿みたいで楽しかった」と語る反面、「人には薦められない」とも言っている。同時期に恭一のバンド「スゥインドル」の舞台に上がって踊ったりラッパを吹いたりしていた。
その後、正式にトランペット・コーラスとしてスウィンドルに加入。BUCK-TICKの櫻井敦司とはメジャーデビューした日が同じで、当時、所属していたレコード会社も同じ(ビクター)ということもあり、非常に仲がいい。(MAGUMI曰く、櫻井とは飲み屋でパンツを脱ぎあったり、都内某所のカラオケバーで盛り上がったり、自宅で麻雀したりする仲らしい)酔うと「やたら泣く→生い立ちについて延々語る」という学生時代(恭一・現の時事放談参照)から、デビュー時には「酔うと露出狂」になった。2009年よりMAGUMI AND THE BREATHLESSのボーカルとしても活動。

根岸和貴

音楽家、プロのベーシスト、エンジニア、小岩LIVE THEATER ORPHEUS(オルフェウス)店長
新聞奨学生で音楽専門学校に。学校の時からピアノを習っていて、発表会に出たりしていました。じまんぐ(シンガーソングライター・プロデューサー / Sound Horizonサポートボーカル等)さんのソロプロジェクト「じまんぐvs.ジャージャージャージー」でベースを弾いていました。現在もサポートを中心にプロのベーシストとして活動しています。レコーディングも独学で学んだので今はエンジニアもやっています。

矢澤昴

音楽家、ピアニスト
足立区の産経新聞興野販売店で新聞奨学生として働きながら東京音楽大学音楽学部音楽学科でピアノを専攻する。

国安修二

音楽家、シンガーソングライター、作曲家、実業家
千葉県香取郡多古町出身。1978年に地元で結成したフォークデュオ「TAKE ONE」として千葉音楽祭で入賞し、東京都内の大学在学中の1981年にメンバーを追加してグループとした「RAIN」でテイチクからレコードデビュー。高校卒業後デビューするまでの約2年間は新聞奨学生として銀座の新聞販売店で働いていた。
グループ解散後の1983年に須藤晃プロデュースでCBSソニーからソロデビュー。 初期はバラード調の曲に、主人公が経験した淡い恋を大学生活と絡めながら振り返り葛藤する歌詞を乗せた作品が多く、学園ソングの様相を伺わせていた。なお、これらの殆どの歌詞は本人の経験を基に田口俊が作詞している。1986年1月には芸能プロモーターの鈴置雄三(→ハイヤングKYOTO)によって、コンサート会場の穴埋めのために急遽結成したソロ歌手3人組ユニットのパフォーマンスから「GAN-BA-RUNDA CLUB」名義でのレコードリリースも行った。ソロの代表曲は1985年に発表した「ねぇ」。この曲は、三貴の婦人服専門店「ブティックjoy」のCMソングとして起用された。

会社員みかん。

音楽家、シンガーソングライター、会社員
私は専門学校に通いながら、2年間卒業するまで続けていました。新聞奨学生をやっていた、というと大体びっくりされるし大変だったでしょー?と言われます。

清水りょう

映像作家、CMディレクター、ミュージック・ビデオディレクター、映画監督、脚本家、日本映画監督協会会員
本名:清水芳成。1990年、実家がレンタルビデオ店を開業。店番を手伝いながら映画三昧の日々で影響を受け、俳優を志し芸能事務所に所属。しかし、林海象が企画・原案・総合監督を務めた映画作品「アジアンビート」シリーズを観て、各国監督の演出の違いに興味を持ち、映画監督への道にシフトチェンジすることに。役者としての活動は続けつつ、シナリオセンターに通い将来へ備える。
1997年、日本大学経済学部を中退し、東京映像芸術学院へ入学。園子温や今関あきよしなどに学ぶ。新聞奨学生として働きながら、3本の中・短編映画を監督した。 1998年、竹内鉄郎率いる竹内芸能企画の扉を叩き、ギターウルフや当時歌手活動もしていたネプチューン (お笑いトリオ)などのミュージック・ビデオ制作に参加。 1999年、CM制作会社TC.MAXに入社。在籍中にミュージック・ビデオ制作集団を立ち上げ、数々の作品を監督する。 2001年、独立。屋号をmiu reel(ミュウリール)とし、フリーランスのミュージック・ビデオ作家として活動をスタートさせた。その後、CMやイベント、番組やドラマなど、幅広いジャンルで映像を監督するようになる。 2008年には宣伝会議主催の講座にて、クリエイティブ・ディレクター箭内道彦に学ぶ。翌年には映画監督の顔も持つシンガーソングライター・俳優の泉谷しげるとネット放送局を立ち上げ、彼の指導の元で撮影・編集を担当する。清水は初めて師事した竹内鉄郎と合わせ、この3名の個性的で破天荒な創作活動に憧れ、師と仰いでいる。

土屋トカチ

映画監督、フリーランス映像ディレクター
1971年生まれ。京都府舞鶴市出身。龍谷大学法学部卒。新聞奨学生をしながら大学を卒業。書店員、工場勤務等を経て、2000年映像制作会社へ就職。2002年会社都合により解雇。現在フリーランス映像ディレクター。映像グループ ローポジション所属。主な作品「たのしき われらが楽生院」(2006年)「フツーの仕事がしたい」(2008年)。

大平いっぱく

浦安市消防団、陸上自衛隊予備自衛官、新聞記者・政治家秘書
昭和59年生まれ、浦安市堀江在住新聞奨学生として日本経済新聞での勤務、SNSメッセージングアプリのIT企業にて法務・サイバー犯罪対策業務を経て、新聞記者・政治家秘書として7年間、国政と地方政治に関わってきました。また、地域の企業にてリゾート産業に6年、運営やフードサービスに携わっています。その他、浦安市消防団、陸上自衛隊予備自衛官として有事の際には市民・国民の役に立つべく、平素から訓練に励んでおります。

えんがわ

ブロガー、大学生
高校卒業。4年制大学。現在留年して4年生。 僕は付属高校に通ってたのでそのままエスカレーターでと思いきや、両親から「私大に行くなら金がねぇ」と来た。ほんならバイトせなと探してて、たまたま担任の先生に相談したところ「新聞奨学生っていう奨学金制度があるで」。これが僕が新聞奨学生になるキッカケでした。

やすえっち

ブロガー、占い師、IT系カスタマーサポート
大阪生まれ、宮崎育ち、関西20年以上過ごし、アラフォーで北関東のシングルファザーの元に嫁ぐ。当時の息子は中3と中216歳でクローン病発病、その後新聞奨学生中に阪神大震災にて被災。IT系カスタマーサポート、大阪やインターネットにて占い師京都市内で着付けの修行をし現在はグンマー在住。

kenny (ケニー)

ブロガー、社会人学生、フリーランスエンジニア
フリーランスエンジニアを目指して、転職→2018年7月から会社に所属してスキルを磨き中主に、Android、iOSアプリを開発してます。

ふじい りょう(Parsley)

ブロガー、ライター、Webディレクター
約20年前某新聞の奨学生だった。1976年4月8日東京都生まれ。埼玉の団地育ち。エンタメ系出版社、ITベンチャー、広告企画会社でWeb担当し、現在はフリーのライターとWeb制作・運営・広報のお手伝いをしております。ブログ『Parsleyの「添え物は添え物らしく」』を2004年より運営。政治・社会・メディア情報に口を出しているうちに、物書き仕事も頂けるように。

コガワハヤト

ブロガー、ライター
青森県出身。高校を卒業と同時に上京し、20代前半をバンド活動に捧げる。26歳でワーキングホリデーを利用してオーストラリアに渡る。右も左もわからないまま海外生活を続け気が付けば3年目に突入。現在は学生ビザでオーストラリア、シドニーに滞在中。

熊谷明子

ブロガー、ライター
旧姓仲村。朝日新聞奨学生として二年間走り回った。朝日新聞の専業でも良い人は沢山いた、その中の一人が東京都文京区千駄木の団子坂店で放火にあった店長だ。店長は新聞奨学生時代に歳上の夫人に惚れた。彼女は若くして新聞配達所の店長夫人となり、店長が急死して未亡人だった。彼は販売所社員となり、結婚した。

カビラ

ブロガー、サラリーマンブロガー
東北生まれで18歳まで東北で育つ。上京して新聞奨学生になりならが学校に通う。20際で卒業し就職することに。就職先はまさかのブラック企業。3ヶ月間無休で残業もすることに。当然残業代や休日出勤手当も無し。22歳で投資を始める決意。23歳で学生の頃から付き合っていた彼女と結婚。25歳の時に詐欺にあい150万円消える。26歳は投資で持っていた含み損三千万円を溶かす。26歳でマイホーム購入。28歳サラリーマンブロガーデビュー。

ボルト

ブロガー、WEB漫画家
WEBネーム:ボルト。毎日新聞の新聞奨学生、毎日育英会に所属していました。ギャンブル飯を食べたり首都高周回したりしてるアクセラ・スポーツ22XD乗り。

yabanbonjin(野蛮凡人)

ブロガー
4年間のあいだ新聞奨学生として人生をエンジョイした僕が体験した新聞配達などの業務、職場の人間関係、大学との両立など実態・現実を包み隠さず暴露するブログを書いてます。

スネーク

ブロガー
2年間新聞奨学生の経験あり。ホリエモンに感銘を受け自由に生きたいと思い退職。現在コインランドリーを経営するも赤字で借金300万円。人生模索中のアラサー男子。

ブルー

ブロガー
貿易事務する一児の母です。高校卒業後、様々な職種(主に肉体労働、接客業)をしていましたが、一念発起し通関士試験に合格したうえで、念願のホワイトカラーになりました。周りは一流大学出身者で語学堪能、パソコンスキル上級。方や、英語はできない、パソコンもほとんどできない。ビジネスマナーのことは何も知らない。その低スペックでもなんとか大卒と対等に働くために工夫している話などを主に書くつもりです。

オグヘイ

フリーランスのデザイナー
私の兄が上京した際に新聞奨学生制度を利用していました。それを見ていた当時の私は深く考えず、兄と同じように上京して新聞奨学生として専門学校へ通う道を選んだ。専門学校はいわゆるゲームを作るプログラムのコース。結局は学校はすぐ半年も経たないうちにやめてしまう。しかし、新聞配達の契約期間は専門学校の2年間ありますから(途中退会できません)、その残りの1年半は新聞配達をして暮らしていた。

新美昌也

ファイナンシャルプランナー
独立系FP。静岡県熱海市出身。韮山高校、富士森高校、中央大学卒。進学のお金、社長のお金を中心にアドバイス業務をしています。最近のマイテーマは「介護」「信託」です。

まみタス

ナレーター、ラジオパーソナリティ、朗読
声優を目指して上京し、日経新聞奨学生2年を経て、今はパートさんになって新聞配達をする毎日。現在ナレーター、ラジオパーソナリティ、朗読など活躍中。

串岡弘昭

トナミ運輸元社員、公益通報者保護法制定のきっかけを作った同社の内部告発者
大学時代、読売新聞奨学生として働きながら、原点ともなる独禁法と出会い、明治学院大学卒業後、幹部候補生としてトナミ運輸に入社。横浜営業所、桶川営業所、岐阜営業所と転勤した。 談合で告発。1974年岐阜営業所時代、過当競争を避けるために談合し、違法な割増運賃をとっていた状況に不満を持ち、まず最高幹部が岐阜営業所を訪ねてきた時に直訴をしたが「役員会で決めたことだ」と取り合ってくれなかった。その為、串岡はトラック業界の闇カルテルを読売新聞社名古屋支局へ告発。業界のカルテル体質や会社の実態を話し、新聞に「50社ヤミ協定か東海道路線トラック」という見出しが躍った。
告発後の日々。1975年以降、研修所に異動を命じられる。以来32年間会社の草むしり、ストーブへの給油、雪下ろし、布団の整理など雑務のみ与えられ、仕事らしい仕事は何一つ与えられず、手取り18万円のまま昇給も一切なかった。暴力団からの脅しは、兄、母親、義兄にまで及んだ。 昇格差別・人権侵害で訴訟。2002年1月29日、同社を相手取り、四半世紀に及ぶ昇格差別、人権侵害による経済的・精神的損失として4,500万円の損害賠償と謝罪を求める訴訟を富山地裁に起こした。2005年、富山地裁は同社に対し1,365万円の支払いを命じる判決を下した(その後控訴審で1審判決の金額に上乗せした賠償金を支払うことで和解)。 2006年9月20日、トナミ運輸を定年退職。
2010年1月15日、愛媛県警元巡査部長の仙波敏郎、オリンパスの現役社員とともに「公益通報者が守られる社会を!ネットワーク」を発足させる。

にしゃんた

タレント、落語家、羽衣国際大学現代社会学部准教授
ボーイスカウトの一員として、高校生時代の1987年に初来日(その時に大津市坂本にホームステイ)。それがきっかけで日本へ留学。YMCAに通った。雄琴温泉で布団敷きのアルバイトをしていた。来日(日本語勉学開始)1年で日本語能力試験一級に合格。立命館大学には4年間、嵐山で新聞奨学生をしながら通い、立命館大学経営学部を学部総代で卒業。外国人での初めての読売新聞奨学生だった。在学中、全日本空手道連盟公認四段と指導員の資格取得。
大学卒業後、大学院に進み、名城大学で修士(商学)、龍谷大学で修士(経済学)、2003年に博士(経済学)を取得。龍谷大学の中村尚司(地域自立経済学)、鶴見良行(民際学)、田中宏(在日外国人論)やスリランカ・コロンボ大学学長のW.D.ラクシュマン(スリランカ経済)に師事した。大学院在学中(2001年)に、株式会社グローバルコンテンツ初代の代表取締役になる。博士(経済学)を取得した後、大学教員として経済学を日本の次世代に教える。7年間の山口県立大学准教授を経て、2010年より羽衣国際大学で准教授、後に教授となる。

ブンシリ

タレント、俳優
2001年にタイの歴代首相などを輩出している、国立難関大学 タマサート大学を、優等生二位という首席で卒業し、卒業後、タイ国政府観光庁認定ガイドライセンスを獲得する。2002年に読売新聞の奨学生として来日。2年間、日本語学校に通い、日本語能力試験1級に合格。その後東京農業大学に研究生として進学した。2005年からは、日本大学藝術学部の科目等履修生として演劇を学んだ。その後、イギリスのロンドンとオーストラリアのシドニーへ留学し、2010年に再び日本に戻って来た。

さかとも

タレント、お笑いコンビ「ひつじ」、芸人
本名:菰田智之、出身:千葉・勝浦市、芸人を志したのは昨年の10月。高校卒業後、ニート生活を経て芸人になろうとワタナベコメディスクールの門を叩いた。現在は新聞奨学生として毎朝早起きをして新聞配達をしながら、芸人の道を歩んでいる。

佐波優子

ジャーナリスト、キャスター、予備自衛官、モデル、慶應義塾大学環境情報学部在学中
秋田県出身、埼玉県育ち、桐朋学園芸術短期大学卒業。高校卒業後に芸能事務所に所属するが、突然の事務所の倒産により活動が頓挫し、新聞奨学生を経て短大に入学。短大在籍中に当時自由党に在籍していた西村眞悟の選挙バイトをきっかけに、靖国神社清掃奉仕活動、旧日本兵の遺骨収集事業を経て、卒業後はモデル活動の傍ら予備自衛官の訓練に参加するようになる。 2010年(平成22年)、アパグループによる第三回「真の近現代史観」懸賞論文の最優秀藤誠志賞を受賞。以後、日本文化チャンネル桜を中心とした保守論壇に活動の場を広げるとともに、陸上自衛隊予備自衛官二等陸士となる。平成30年現在は予備陸士長。また、戦争を戦った人々の声を後世に少しでも伝える目的で「祖父たちの戦争体験をお聞きする孫の会」を設立し、フィリピンなどで元日本兵の遺骨収集活動も行っている。
2014年(平成26年)の東京都知事選挙では田母神俊雄候補を支持し応援演説にも参加。選挙期間中、日刊ゲンダイなどの各種メディアは葛城奈海、色希(モデル)、saya(歌手)、浅野久美らを「田母神ガールズ」と呼んで取り上げた。2015年(平成27年)2月、慶應義塾大学環境情報学部に一般入試により合格し、同年4月より進学。

近藤和宏

エンジニア、株式会社葵社員
高校卒業後、大阪のコンピューター専門学校に進みWEBに関する技術を専攻して、システム構築・PHP・Javaなどを学ぶ。専門学校には、「新聞奨学生」として通う。 専門学校を卒業し、就職で東京に出てきて、アニメ系コンテンツに強い、受託開発をする会社で4年間働く。

大石真弘

アナウンサー
高校在学中には「全国高等学校クイズ選手権」(日本テレビ)に山形県代表として全国大会に出場した。卒業後は、毎日新聞販売所にて毎日育英会の新聞奨学生として勤務しながら、1年間の浪人生活を毎日セミナーなどの予備校で過ごし、大学・大学院へと進んだ。早稲田大学商学部時代は大塚勝夫ゼミ、大学院時代は堀口健治研究室に在籍し、経済発展論・農業経済学を専攻した。

新聞配達をしていた有名人

三遊亭好楽

落語家
本名家入信夫。東京都豊島区出身の落語家。前名は林家九蔵。 出囃子は『ずぼらん』、あるいは五代目三遊亭圓楽、および六代目円楽と同じ『元禄花見踊』。落語家の三遊亭王楽は長男。 演芸番組『笑点』(日本テレビ)の『大喜利』メンバーである。2015年より、五代目円楽一門会会長を務める。

立川談春

落語家
1966年東京都板橋区に生まれる。小学校1年時に埼玉県戸田市へ転居。1984年埼玉県立南稜高等学校を中退し、17歳で7代目(自称5代目)立川談志に入門。立川談春との前座名を名乗る。1988年二つ目に昇進、引き続き立川談春を高座名として名乗る。

加藤唯史

漫画家
上京後、新聞配達のアルバイトの傍ら、渡米を志し英会話学校に通う。しかしその1年後、棚下照生のアシスタントとなり、3年間務めた。
1973年に貸本雑誌『劇画No.1』(東考社)掲載の『妖かしの森』にてデビュー。当時のペンネームは本名の加藤正だった。その後は少年誌で執筆し、後に青年誌で連載を持つようになる。代表作に『ザ・シェフ』など。 『週刊少年チャンピオン』(秋田書店)で連載していた『ロン先生の虫眼鏡』は、当時同誌で『がきデカ』などが連載されていたせいか、同誌の「唯一の良心」と言われていた。同作はのちに『月刊少年チャンピオン』(秋田書店)へ移籍した。

高野弥一郎

翻訳家
新潟県小千谷市片貝の農家に生まれ、小学校卒業後、鉄工所に勤める。英文学に志して上京し、銀座で新聞配達をしながら早稲田大学英文科に学ぶ。在学中に『サンデー毎日』の懸賞映画小説に応募し「夢と女」で当選、小説家を志す。1940年、喜多荘太の筆名でアンドレ・モーロワ「欧州大戦秘話」を『サンデー毎日』に連載し、『フランス敗れたり』として刊行すると、300版の大ベストセラーとなり、にわかなモーロワのブームが訪れた。1944年、郷里新潟県に疎開、高校教師をしながら、戦後も翻訳を続けた。

田島隆

法律職、漫画原作者
1968年広島県呉市生まれ。中学2年の時に両親が離婚。高校に進学するが1年で中退。15歳で家を出るが、新幹線の高架下で車上生活を余儀なくされ、トラック運転手・花屋・クリーニング技師・新聞配達・営業マン・工員など30あまりの職場を経験。 20歳の頃、代行運転手の業務に就いたが、賃金未払いのまま解雇され、労働基準監督署に相談して賃金を取り戻すという体験をし、法律の力の凄さと幼い頃から強いられたような理不尽な人生の味方になる可能性を知る。その後、日中は清掃の仕事をしながら資格試験を目指し、司法書士補助者を経て、海事代理士と行政書士の試験に合格する。
故郷の呉市に海事代理士・行政書士事務所を開業した後、28歳で『ナニワ金融道』にアイデア提供を申し出て、『ナニワ金融道』海事代理士編につながる。のちに従弟の東風孝広と『カバチタレ!』の連載をスタート。 海事代理士・行政書士としての実績により広島修道大学大学院法務研究科(法科大学院)への受験資格を認められ入学するが、弁護士になれず修了。その後、早稲田大学大学院法学研究科博士前期課程在学を経て、現在は広島大学大学院・医歯薬保健学研究科(医学研究科・法医学教室)博士コースに在学中。

トーマス・アルバ・エジソン

トーマス・アルバ・エジソン
少年時代のトーマスは、異常なほどの知りたがり屋で自宅の納屋を全焼させるなどの事件を起こし小学校に入学するも3か月で退学。自宅で独学することになった。化学実験に没頭した少年時代、人間が空を飛べるようになる薬を作ろうと試み、ヘリウムガスをヒントにして薬を自作し、友人に飲ませた。エジソンの目論見としては、その薬を飲むと体内でガスが発生し、その浮力で人間が浮き上がるはずだったが、実際には薬を飲んだ友人が腹痛を起こしてもがき苦しみ大騒ぎになった。少年時代のエジソンは持ち前の好奇心が高じて、自らの手で新聞を作り、列車の中で売って評判になった事があった。しかし、ある人物を皮肉った内容の記事を新聞に載せたところ、これを見て激怒した本人から暴行を受け、これに懲りてエジソンは新聞作りをやめた。

江口のりこ

俳優、女優
高校入学と同時に映画館に足しげく通ううちに映画女優を志し、劇団に入るために上京します。 1999年には研修生となり2000年に「劇団東京乾電池」に入団し、住込みの新聞配達の仕事をしながら稽古を受ける。

福山雅治

俳優、シンガーソングライター
長崎県長崎市にて1969年出生。2人兄弟の次男として生まれる。長崎県立長崎工業高等学校卒業後に長崎の会社に5か月間勤務。SION「SORRY BABY」を聴いて退職・恋人別離するなど全てを振り切って18歳で上京。アルバイト生活を送るなか1988年に「アミューズ・10ムービーズオーディション」に合格しアミューズに所属する。その後、映画「ほんの5g」にて19歳で俳優デビュー。 シングル「追憶の雨の中」で1990年3月21日に歌手デビュー。

クォン・サンウ

俳優
韓南大学美術教育学科卒業。2001年、ドラマ『おいしいプロポーズ』脇役でデビュー。2003年、映画『同い年の家庭教師』520万人動員。2004年、映画『マルチュク青春通り』、ドラマ『天国の階段』で、非常に高い人気を獲得する。その後、アジア各国で放送され日本でも注目を集める。2008年、ソン・テヨンと結婚、2009年長男、2015年長女誕生。

トム・クルーズ

俳優
12歳の時にご両親が離婚、母親に引き取られたトム クルーズ氏は、貧しい家計を助けるために新聞配達のアルバイトを行っていた。

斎藤工

俳優
ブレイクしたドラマ「昼顔」の前くらいまで新聞配達のアルバイトをされていた。下高井戸で配達をしていたようで、未だに配達員としての籍が残っている。

堺雅人

俳優
数々のバイト遍歴を持つ堺さん。新聞配達経験あり。通商産業省の官僚を目指し国立大学を受験しましたが失敗。早稲田大学に入学し官僚の夢は諦め演劇の道に進みますが、本格的に役者になろうと大学を中退すると親に勘当され仕送りもなくなりました。
バイトで食いつなぎ本当に空腹の際には道端の雑草を口にした事もあるといいます。そんな極貧生活をなんと、デビューするまでの5~6年も続けていた堺。有名俳優までの道は簡単なものではありませんでした。

草刈正雄

俳優
子供時代は「バービー」という愛称で呼ばれる。小学生より新聞配達と牛乳配達の仕事を掛け持ちして登校。少年時代は現在の小倉北区昭和町、北九州市立中島小学校界隈で過ごし、小倉祇園太鼓に参加、中学卒業後、世界文化社の代理店で本のセールス、小倉の文具店の配達員などで働きながら福岡県立小倉西高等学校の定時制に通い、軟式野球部のピッチャーとして全国大会に出場。
1964年頃、北九州市立中島小学校学芸会で「火の山」の主役を演じる。アルバイト先のスナックのマスターが東京のモデル事務所を紹介、ファッションショーを観に行った際スカウトされ、17歳で上京して東京都立青山高等学校定時制に転校、卒業。 1970年に資生堂専属モデルとなり、MG5のCMで団次郎の弟分としてデビュー。2年余りのファッションモデルを務めた後、俳優へ転向。 1974年に東宝の専属となり、『卑弥呼』で映画デビューし、同年映画『沖田総司』にも出演、製作者協会新人賞を受賞。 1975年エランドール賞・新人賞を受賞。 1976年大河ドラマ『風と雲と虹と』に出演。 1977年のテレビドラマ『華麗なる刑事』でロサンゼルス帰りの凄腕刑事という主人公に。同ドラマでは挿入歌『センチメンタル・シティー』も歌う。20代半ばで人気は絶頂となり、また同年にはマルベル堂のプロマイド年間ランキング俳優部門1位を獲得。

田宮五郎

俳優
本名柴田英晃。旧芸名田宮英晃。 東京都出身。東京農業大学農学部畜産学科卒業。 2006年2月高瀬プロダクションに所属、芸能界入りし、同年7月1日、NHK土曜ドラマ『人生はフルコース』で芸能界にデビュー。2007年3月、ABeBe(現・アベベネクスト)に移籍。2011年、キャストパワーに移籍。主にテレビドラマで活躍。

薬丸裕英

俳優
両親は共に鹿児島県出身で、父は自動車工場を経営。幼少期は4畳半二間、かつ共同便所というアパートを住居に、小学生の頃から新聞配達で働くという生活を送っていた。

中野四郎

政治家、衆議院議員(通算13期)、国土庁長官、碧南市長などを歴任
愛知県碧海郡新川町(現・碧南市)に中野久吉、さだ夫妻の四男として生まれる。生家はどじょう屋。小学校卒業後農機具店に奉公に出るが、13歳の時単身上京し、新聞配達などをしながら私立豊山中学校(現・日本大学豊山中学校・高等学校)で学ぶ。1923年9月に同校を中退。その後、大正デモクラシー期を代表する論客の一人であった茅原華山の知遇を得、門下生となる。1938年3月に東京市牛込区(現・新宿区)議会議員に当選、同区議2期目途中の1942年6月に東京市会議員に転じる。

又市征治

政治家、社会民主党党首
小学4年生から家計を助けるために新聞配達のアルバイトをしていました。豪雪地帯の富山で毎日3時に起きて、田畑の作業などを行ってから朝刊を配達、放課後も夕刊配達~田畑の作業という過酷な生活を高校時代まで一日も休むことなく続けていた。

中田宏

政治家、元横浜市長
神奈川県横浜市生まれ。横浜霧が丘高校時代は空手道に打ち込んでいた。卒業後、二浪して入学した青山学院大学経済学部を1989年に卒業し、松下政経塾に入塾(第10期生)

小泉進次郎

政治家
中学3年の夏休みに新聞配達のアルバイトをされていました。修行の意味で父の小泉純一郎氏に促されて始めたようです。遅刻・欠勤も一切無く、仕事も正確で評判は良かったとのこと。

渡辺喜美

政治家
参議院議員(1期)、院内会派みんなの党代表。衆議院議員(6期)、内閣府特命担当大臣(規制改革)(第1次安倍内閣)、内閣府特命担当大臣(金融)(第1次安倍改造内閣・福田康夫内閣)、みんなの党代表(初代)、日本維新の会副代表を務めた。

山本一力

小説家
高知県高知市生まれ。東京都立世田谷工業高等学校電子科卒業。 生家は高知市の大地主であったが没落、14歳の時に上京。通信機輸出会社、大手旅行会社(近畿日本ツーリスト)、コピーライターなど十数回の転職を経て、1997年に『蒼龍』でオール讀物新人賞を受賞してデビュー。2002年には『あかね空』で直木賞を受賞。他に『大川わたり』などの時代小説がある。

大川護郎

実業家、不動産業者、作家
16歳から新聞配達を始め、すぐに店長となり20歳で年収1000万円を実現。その後不動産業に進出し、今では家賃収入が月約3億6000万円という不動産王に成り上がった。

佐野実

実業家、支那そばや店主
神奈川県横浜市戸塚区に4人兄妹の次男として生まれた。横浜市立戸塚小学校、横浜市立戸塚中学校時代は新聞配達や牛乳配達のアルバイトをしてラーメン屋に通った。神奈川県立平塚農業高等学校園芸科を受験したが不合格。 私立藤沢商業高等学校(現:藤沢翔陵高等学校)に進学。高校卒業後、横浜ドリームランド内の不二家レストランに就職。
28歳から34歳までは管理職(店長)を務める。湯河原の青竹手打ち麺が売り物のラーメン店で1週間修業したのち、1986年8月に藤沢市鵠沼海岸7丁目に「支那そばや」を開店。 2000年以降、2008年11月に自身の出身地である横浜市戸塚区に移転した「支那そばや」本店と、新横浜ラーメン博物館店を営業している。本店の開店と同時に、「「ラーメンの鬼」佐野実の厳選ブログ」を開設した。

岩田聡

実業家、元任天堂社長、ゲームクリエイター、プログラマ、経営者
任天堂の元代表取締役社長で、HAL研究所代表取締役社長なども歴任した。北海道札幌市出身。札幌市立真駒内中学校、北海道札幌南高等学校、東京工業大学工学部情報工学科卒業。

堀江貴文

実業家、ライブドア社長、著作家、投資家、タレント
愛称はホリエモンだが、堀江本人があだ名やペンネームなどを名乗る際にはたかぽんを自称している。sns media&consulting株式会社ファウンダー、インターステラテクノロジズ株式会社ファウンダー、株式会社7gogo取締役、日本ゴルフ改革会議委員、Jリーグアドバイザー、大阪府の特別顧問(国際博覧会(万博)担当)である。元ライブドア代表取締役社長CEOである。

ウォルト・ディズニー

実業家、アニメーター、プロデューサー、映画監督、脚本家、声優、エンターテイナー
アメリカ合衆国・イリノイ州シカゴに生まれた。世界的に有名なアニメーションキャラクター「ミッキー・マウス」とはじめとするキャラクターの生みの親で、『ディズニーリゾート』の創立者であり、兄のロイ・O・ディズニーと共同で設立したウォルト・ディズニー・カンパニーは数々の倒産、失敗を繰り返すも、350億ドル以上の収入を持つ国際的な大企業に発展した。

高橋睦郎

詩人、歌人、俳人、文化功労者、日本芸術院会員
福岡県八幡市(現北九州市)生まれ。貧しい母子家庭に育ち、新聞配達と奨学金で福岡県立門司東高等学校に学ぶ。高卒後は就職を希望していたが母子家庭ゆえに就職試験で落とされ、家庭教師のアルバイトをしつつ福岡教育大学教育学部国語科に学ぶ。大学卒業半年前に肺結核と診断され、生活保護を受けて結核療養所に入り、2年間の療養生活を送る。1961年に快癒して療養所を出たが、結核歴のために教員への道を閉ざされる[4]。大学卒業後、1962年上京し、日本デザインセンターにアルバイトで雇われ、1966年にはサン・アドに移る。以後、40歳代半ばまでコピーライターとして広告会社に勤務。

丸山和也

国際弁護士
政治家、元法務官僚、弁護士(登録番号:13673、第一東京弁護士会)、タレント、歌手。自由民主党所属の参議院議員(2期)。丸山国際法律・特許事務所代表[1]、丸山総合法律事務所代表。また弁理士としても登録している。

ジャッキー・ロビンソン

元スポーツ選手、野球選手
アメリカ合衆国ジョージア州カイロ出身のプロ野球選手(内野手)。 1890年頃以降、有色人種排除の方針が確立されていたMLBで、アフリカ系アメリカ人選手としてデビューし活躍。有色人種のメジャーリーグ参加の道を開いた。

緒方孝市

元スポーツ選手、広島東洋カープ監督
小学4年生の時に自転車が欲しくて新聞配達のアルバイトを始めたそうです。結局自転車は買ってもらったそうですが、その後も新聞配達を小学校を卒業するまで続けていた。

梨田昌孝

元スポーツ選手、元プロ野球(捕手)、元監督、プロ野球解説者、大阪産業大学客員教授
島根県浜田市生、中学時代に父を亡くし、学生時代は新聞配達や集金などで学費を稼いでいた。昭和47年近鉄バファローズ入団(ドラフト2位)。昭和63年現役引退。平成元年NHK野球解説、日刊スポーツ野球評論家。平成5年近鉄バファローズ作戦バッテリーコーチ。平成7年近鉄バファローズバッテリーコーチ、平成8年大阪近鉄バファローズ二軍監督。平成12年大阪近鉄バファローズ監督(平成13年リーグ優勝)。平成17年~NHK野球解説、日刊スポーツ野球評論家。平成18年~学校法人大阪産業大学客員教授。

野村克也

元スポーツ選手、元プロ野球(捕手)、監督
野村は小学校1年生の頃から兄とともに新聞配達やアイスキャンディー売りなどのアルバイトで、家計を助けます。また、父の戦友の助けや母の糸繰りの仕事もあり、何とか生活は出来ました。貧乏な生活から脱却したいと思っていたところ、当時プロ野球の大スターの川上哲治などの憧れから、野球選手を志すようになります。

小貫岩夫

元スポーツ選手、テノール歌手
北海道出身。同志社大学卒業後、大阪音楽大学首席卒業。文化庁オペラ研修所第11期修了。飯塚新人音楽コンクール声楽部門大賞(文部大臣奨励賞)。日伊声楽コンコルソ第2位入賞。コンセール・マロニエ21声楽部門最優秀賞受賞。読売新人演奏会、ABC新人コンサートに出演。
音大在学中の95年、堺シティオペラ「魔笛」タミーノ役に抜擢され、テオ・アダムら世界的歌手と共演デビュー。この成功により、ドイツ・ケムニッツ市立歌劇場より招聘を受け、96年同役で出演し、地元紙より好評を得る。98年より文化庁派遣芸術家在外研修員としてミラノへ留学。2000年、R.シュトラウス「サロメ」(若杉弘指揮)で新国立劇場デビュー。

菊池新吉

元スポーツ選手、「栃木サッカークラブ」のGKコーチ
読売サッカークラブ入団後、藤川孝幸を抑えてレギュラーを獲得。Jリーグではヴェルディ川崎で三浦知良、武田修宏、ラモス瑠偉、北澤豪、ルイス・カルロス・ペレイラ、柱谷哲二、都並敏史等と共にスタメンの座を不動のものにする。Jリーグ開幕後は、地元・遠野で「菊池新せんべい」なるものが発売されたほどであった。

玉置浩二

歌手、俳優
小学1年から中学1年まで新聞配達バイト経験あり。しかも牛乳配達バイトも同時並行でやるという偉業を成し遂げている。

山口百恵

歌手、女優
デビュー前に暮らしていた横須賀で、新聞配達を行い貧しかった家計を助けていた。14歳でお金を稼ごうと思えば、新聞配達から芸能界しかないでしょう。しかし、新聞配達などで稼ぐことのできるお金は限られています。山口百恵さんは母を楽にさせたいという気持で、オーディション番組「スター誕生!」への応募を決めたのでしょう。

角川博

歌手
親の憲弘さんは広島市で新聞販売店を営み、角川さんは幼い頃から家業を手伝っていた。早朝の新聞配達にチラシの折り込みなど連日のつらい作業を通じ、父親から学んだことは、一日一日を大切にする前向きな姿勢という。

福原美穂

歌手
中学時代にCDを買うためのお金を稼ぐために新聞配達バイトを経験。根っからの音楽人。

マックス・ティシュラー

化学者
1906年にボストンでヨーロッパからの移民の6人兄弟の5番目として生まれた。靴屋の父は、マックスが5歳の時に家族を捨て、マックスはパンや新聞の配達で家計を助けた。1918年のスペインかぜの流行時には薬局に勤めていた。タフツ大学で化学を学び優等(magna cum laude)の成績で卒業し、ハーバード大学から1933年に化学の修士号、1934年に有機化学の博士号を得た。

ケン・マスイ

音楽家、元DJ、起業家、音楽プロデューサー、作曲家、作詞家、音楽ディレクター
株式会社エッジ・オブ(EDGEof)の創業者で共同最高経営責任者。2017年よりMr.Childrenのミュージックディレクター兼クリエイテブデイレクター。2018年より株式会社 Spark Neuro JapanのCEO。東京都出身。アメリカ・ワシントンD.C.育ち。南山大学経営学部卒業。

タツヒロ(村山辰浩)

音楽家、「カサリンチュ」ボーカル・アコースティックギター担当
中学・高校の同級生だった二人は、同じバンドを組んでいた。高校卒業後、専門学校進学を機に上京。それぞれ東京での生活を経て島に帰郷。友人の結婚式で二人で歌ったことがきっかけとなり、2005年ユニット結成。ユニット名は「笠利の人」を意味する。
インディーズでミニアルバムを2枚リリース後、2010年にミニアルバム「感謝」でメジャーデビュー。メジャーデビュー後も奄美大島に在住し、それぞれ仕事をしながら音楽活動を続けていたが、タツヒロが音楽活動に専念するため、2013年6月末で製糖工場を退職したことが、2013年7月の「わん、脱いじゃいます!」重大発表しちゃいます!ツアーの中で発表された。

パトリック・ハーラン

タレント、漫才、コメンティター、文筆業など
役者志望だったこともあり俳優や声優としても活躍している。流暢な日本語を生かしDJやMC、ナレーターもこなし、吉田眞とお笑いコンビ「パックンマックン」を結成する。「パックン」として日本語ではボケ、英語ではツッコミを担当。

稲垣吾郎

タレント、元SMAPメンバー
母との思い出について稲垣は「うちの母親は新聞配達をしていて、団地育ちで、家で一人で待っているのが寂しかったから、母の夕方の新聞配達に付き合っていました。団地なんで新聞配達が効率よくできるんです」と目を細めていた。

大倉忠義

タレント、関ジャニ∞メンバー
お父さんが『鳥貴族』の社長。2人の息子は株の一部を譲渡されているらしいですが、お父さんは『近所のコンビニでいちばん安い時給を調べてみなさい』と、世間の厳しさを教える育て方をしたとか。そんな大倉は近所の居酒屋でレジ打ちのバイトをしています。朝刊の新聞配達をしたこともあるそうです。

コロッケ

タレント、ものまねタレント
当初はショーパブやゲイバーなどを中心に活動。熊本での素人時代、あまりの面白さに「瀧ちゃんよか!」と繁華街から声援が飛ぶ程の人気ぶりであった。このとき、一度知人の伝で上京、あるラジオ局でモノマネを披露する機会に恵まれる。このときに立ち会っていたのはタモリ・赤塚不二夫・所ジョージという面々であった。披露後、所ジョージから「君のモノマネは似ているけど面白くない」という痛烈なダメ出しを喰らい、熊本に戻ったのちに一念発起し、「ビジュアルモノマネ」を誕生させることとなる。その後再び上京し、日本テレビの『お笑いスター誕生!!』に出演。グランプリ獲得はならなかったが6週勝ち抜きで銀賞獲得、以後テレビなどでも活躍するようになる。

アンミカ

タレント、モデル、テレビ・ラジオ出演、ジュエリー・ファッションデザイナー、化粧品プロデュース、エッセイ執筆や講演、シンガー
本名の表記は安美佳で、韓国済州島生まれの大阪市生野区・阿倍野区育ち。貧しい長屋で育ち、幼少期に口元にケガを負うなど、それらがコンプレックスとなり引っ込み思案な時期もあった。また、実家が二度火事にあうなどの災難にも遭ったが、成長してからはそれらを乗り越えて明るい性格を取り戻し、以後活動的な学生時代を送る。学生時代は陸上部に所属し、早朝の新聞配達やパン店でのアルバイトなど、学業と平行して兄弟姉妹で助け合い、家計を支えていた。モデルとしての活動は、大阪府立住吉高等学校在学中に、コンプレックスを克服する教えをくれた実母の死を機に、モデル事務所へ応募したのがきっかけ。

萩本鉄一

タレント、コメディアン、司会者、ラジオパーソナリティー、演出家
日本野球連盟茨城ゴールデンゴールズの初代監督でもある。浅井企画、佐藤企画(業務提携として所属)、萩本企画(個人事務所だが浅井企画の関連会社)所属。身長164cm、体重65kg。血液型はA型。愛称は「欽ちゃん」。 東京都台東区出身。駒込高等学校卒業。2015年4月より駒澤大学仏教学部に在学していたが、2019年5月に自主退学した。

土田晃之

タレント、お笑い芸人
中学生時代に3日間だけ新聞配達経験あり。1972年9月1日生まれ。埼玉県出身。お笑いコンビ「U-turn」としてデビューし、「タモリのボキャブラ天国」(CX系)で大ブレイク。コンビ解散後は、ピン芸人としてバラエティ番組を中心に活躍している。大のサッカーファンでも知られ、サッカー番組にコメンテーターとして度々出演。

池上彰

ジャーナリスト、名城大学教授、東京工業大学特命教授、東京大学定量生命科学研究所客員教授、日本大学文理学部客員教授、立教大学客員教授、信州大学・愛知学院大学経済学部特任教授、元京都造形芸術大学客員教授、特定非営利活動法人日本ニュース時事能力検定協会理事、毎日新聞「開かれた新聞」委員会委員
1950年長野県松本市に生まれる。1973年慶應義塾大学経済学部卒業。1973年NHKに記者として入局。2005年NHKを退職。以後、フリーランスのジャーナリストとして活動。2007年アイティメディア株式会社の社外取締役就任。2008年『学べる!!ニュースショー!』(テレビ朝日)にニュース解説者として出演。2009年信州大学経済学部特任教授に就任。アイティメディア株式会社の社外取締役を辞任する。2011年3月一杯ですべてのテレビ・ラジオ番組への出演を休止。2012年東京工業大学リベラルアーツセンター専任教授に就任。2014年愛知学院大学経済学部特任教授、日本大学文理学部客員教授に就任。2015年名城大学特別講師に就任。2016年東京工業大学定年退職。名城大学教授、東京工業大学リベラルアーツ研究教育院特命教授、立教大学グローバル教育センター客員教授に就任。

斎藤宗次郎

キリスト教伝道者
無教会主義キリスト教徒である内村鑑三の最も忠実な弟子の一人で、その死に至るまで身の回りの世話をした。また、『雨ニモマケズ』のモデルとも言われている。

渡辺和郎

アマチュア天文家
中学1年生の時に本屋で偶然見た天文雑誌の望遠鏡の広告をきっかけに天文学に興味を持つようになり、自ら新聞配達等のアルバイトで1年後に購入した望遠鏡で天体観測を始める。27歳の時より北海道内に住む友人らと本格的に新惑星探索に乗り出し、観測を始めてから5年目の1988年に初めて小惑星"(3867) 知床"を発見する。以降観測歴15年あまりの間に発見した小惑星は800個以上におよんでいる。 1990年代後半、それまでアマチュアの独擅場だった小惑星発見の分野に、専門家が乗り出して国家予算レベルでの観測をはじめたこともあって現場を退いた。その後は天文学の普及につとめている。